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平成16年度

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コメント及び質疑応答

コメント及び質疑応答

 コメント:公正取引委員会委員 柴田愛子

 含蓄の深い鈴村センター所長のお話ありがとうございました。帰結主義と手続き主義についてみると,帰結主義は配分の結果が望ましい状態になることで,手続き主義というのは,手続きそのものが望ましい状態になるとするものです。したがって,手続きを帰結とは別に考える必要があるというお話でした。幾つか質問を致します。

 質問の1番目は,現実の社会では,それほど2つのシステムを区別していないと考えられます。例えば,手続きが良くても帰結が悪い場合は誰も喜ばず,人々は,帰結も考えて判断するのではないでしょうか。予測される帰結としての不利益が手続きについての不満を述べさせます。したがって,帰結と手続きは連動しており,帰結が手続きを決めるとも考えられます。つまり,帰結と手続きは独立していないということが,第1の質問です。

 質問の2番目は,手続き間の優劣をどのような基準で決めるのかです。この点について,簡単な例で申しますと,3人の子どもがいるとしてお菓子を平等に分けます。したがって,帰結は同じですが,どのような配分手続きがよいのでしょうか。1つ目は,父親が独断で決める。2つ目は,3人がケンカして決める。3つ目は,3人が仲良く話し合って決める。このような場合,手続きの優良はどのような基準で決まるのでしょうか。

 質問の3番目は,競争の初期状態が異なる人々にあてはまる手続きルールは異なります。例えば,おなかがいっぱいの子どもと,おなかをすかせている子どもとで,お菓子は平等に分ける手続きがよいのか,それとも,おなかをすかせた子どもに多くやるのが良いのか。その場合,どのくらいの量のお菓子をやれば良いのか。そういう基準を決定するのが難しいというのが質問です。

 歴史的な事実を見れば,アメリカの黒人問題ではアファーマティブ・アクションがあり,黒人は,大学の入学試験で何点か最初から加点されていました。下請法でも,親企業と子企業といった初期状態の異なるものに対して,違う扱いをしています。つまり,初期状態が異なる場合,それぞれにあてはまる公平な手続きは異なりますし,普遍的に適応される唯一の公平な手続きルールというのは無いわけです。ロールズによる原始の状態,つまり,将来どうなるかわからないという状況で選択をするとすれば,中立的なルールが選ばれるということですが,現在,人々はそれぞれ異なった初期状態にあります。したがって,なかなか合意は難しいわけです。初期状態に応じたおおよそのルールに合意するほかないでしょう。

 鈴村所長のお話の後半の公共の福祉についてですが,競争法では,競争市場の価格と比較して,人為的な介入や阻害行為があって価格が上がっているときに,そうした介入や阻害行為を排除し,価格が下がれば,公共の福祉は増進すると考えられます。セン先生のお話ですが,何か量る尺度があれば非常に役に立つのではないでしょうか。「あなたは現在幸せですか」と質問をして,幸せ度を表明してもらい,幸せ度がその人の効用と関連があるとして分析するという手法が,現在かなり広く世界的に使われております。規範的経済学からは問題もある手法ともされます。しかし,他に効用を表す簡明なデータを採る方法は無いので,世界的に広まっているわけです。

 鈴村:
 興味深いコメントをありがとうございました。まず,手続きに関する考慮と帰結に関する考慮をどのように連動させてひとつの考慮の中に取り入れるかは,ご指摘のように重要な問題です。手続きのみ,あるいは帰結のみに関心を絞るのは,主張したい論点をシャープに提起するためには有用ですが,本来の問題はどういう手続きでどういう帰結を獲得することが望ましいかという点にあって,いわば手続きと帰結のペアを考察する必要があるのです。私が申し上げたかったのも,帰結のみに関心を絞る伝統的な考え方を越えて,手続きと帰結のペアを基礎に据えるように,我々の認識のフレームワークを拡張する必要があるということです。柴田委員がおっしゃるように,手続きの善を確保するためには,どの程度まで帰結の善に関して妥協する覚悟があるかという類の考慮は,この意味で拡大されたフレームワークの中でこそ検討可能なものなのです。まさに柴田委員がご指摘の方向で,新たな研究が現在進行中であるということを,まず申し上げさせていただきます。

 次に,手続きの間の優劣比較に関しては,例えば選択の自由をなにより尊重する人もいるだろうが,どんな手続きであっても構わないから,ともかく飢えさせないでくれという人もいて,個人的にはいろいろな判断があり得ると思います。これは別に問題であるわけではなく,むしろ当然あるべき個人的判断の多様性だと思います。むしろ問題は,多様な個人的判断を前提にして,我々はどのようなルールに基づいて,社会的な判断を行うべきかであります。個人的判断は社会的判断の素材であって,これらの素材が集まったとき,我々は社会的にどのような決定をするのかが,解かなければならない問題なのです。この問題に対処するひとつの方法論的な工夫として,ロールズは無知のヴェールという考え方を持ち出しました。社会の中でだれが有利な立場に立ち,だれが不利な境遇に沈んでいるかがわかれば,だれを社会的に優遇すべきかに関する判断を形成することは,人々の間で真っ向からの利害対立を生んで,解決は困難です。そこで,ロールズは人々の運・不運が未だ不分明な無知のヴェールがかけられた状況を考えて,中立的な社会的判断が形成されるという寓話を作ったのです。

 柴田委員が最後に触れられた幸福研究の話は,世界的にいろいろ研究が進んでいて,久しく無かった心理学者と経済学者との協働もようやく本格化してきています。センのケイパビリティ・アプローチについても,ケイパビリティ・ソサエティという国際学会までできて,実証研究のフレームワークとしてセンの理論をどう機能させるかという研究が,著しく進行しつつあるというのが現状です。期待して待ってよいのではないかと思います。

質疑応答

 質問者A:
 私は法学研究者でございまして,非常に法律家的な感想ですが,公共の福祉を考えるときには2つの局面があると思います。まず,先生のおっしゃった公共の福祉というのは,私の理解では憲法のレベルで考えることです。というのは,我々が独占禁止法を作るときには個人の自由に対する制約を課すことになるので,それは公共の福祉の観点で正当化する必要がある。その際には,直ちに競争的価値がそのような介入を正当化するわけではなく,おっしゃるように,全体的な国民の福祉を考えないことには正当化できないだろうと思います。

 ところが,ルール作りに当たって,公共の福祉の観点から正当化するルールをつくった場合に,個別の要件の判断に公共の福祉を持ち出す必要があるかないかというのが議論の分かれるところだと思われます。というのは,公共の福祉について,独禁法では,例えば,カルテルを行っていて,競争の実質的制限がある場合に,なおかつ公共の利益で正当化できる場合があるかないかというコンテクストで条文がつくられているわけです。私的独占も,同じように,競争に悪影響が出ている場合にあって,なおかつそれを正当化するかどうかという形で考えられているわけであり,立法レベルでは,そういった状況であれば,それを一律に規制するということもある意味では可能な選択肢であります。これは,いわば競争の基本的ルールをつくるにあたって,公共の福祉の観点からどのように設計するかという問題になってくるのだろうと思います。

 独占禁止法における公共の利益は,一旦作ったルールに対して,何らかの観点から話を蒸し返すことが可能になるかどうかという形で議論されております。立法制定の段階では,独禁法を定めるという行為の制約が公共の福祉の観点から正当化されるかという,ある種の手続的な見地からの行為であるのに対して,後者の方は,違法と一旦認定されても,なおかつその行為が具体的なコンテクストでもつ効果を行為功利主義的に介入の良し悪しをその都度判断するという介入方式を意図としたものか否かが,公共の利益に関する学説上の争点となっているわけです。先生がおっしゃっている公共の福祉の問題は個別コンテクストでの帰結の是非を問題にしたものではなく,憲法レベルでの話との関連から,競争の基本的ルールを設計する段階における競争法の全体としての正当化レベルの話ではないかなという印象を受けましたが,この理解でよいでしょうか。独占禁止法における公共の利益は,一旦作ったルールに対して,何らかの観点から話を蒸し返すことが可能になるかどうかという形で議論されております。立法制定の段階では,独禁法を定めるという行為の制約が公共の福祉の観点から正当化されるかという,ある種の手続的な見地からの行為であるのに対して,後者の方は,違法と一旦認定されても,なおかつその行為が具体的なコンテクストでもつ効果を行為功利主義的に介入の良し悪しをその都度判断するという介入方式を意図としたものか否かが,公共の利益に関する学説上の争点となっているわけです。先生がおっしゃっている公共の福祉の問題は個別コンテクストでの帰結の是非を問題にしたものではなく,憲法レベルでの話との関連から,競争の基本的ルールを設計する段階における競争法の全体としての正当化レベルの話ではないかなという印象を受けましたが,この理解でよいでしょうか。

 鈴村:
 私の読み方は,経済学者流の理解に偏っているのかも知れませんが,競争する自由と権利は,憲法が公共の福祉という観点から課した制約条件のもとでは,先験的に認められている。これは川濱先生が整理された「競争の基本的ルールを定める段階における正当化レベル」の問題です。だが,この意味における競争の自由と権利に対して,行為功利主義的な公共の利益の観点から,さらに規制による制約を課すのが競争法の考え方だと理解するのが私の読み方です。まず,競争の自由はある。したがって,競争手段の選択の自由はある。カルテル行為ですら,競争手段の一部として,事前的には許容する仕組みをまず考えてみる。しかし,カルテルが公共の利益を阻害する効果を持つときには,これを禁止するのが競争法だと読むと,憲法の法理の構成の仕方と独禁法の法理の構成の仕方は極めてパラレルであるように思われるのです。

 もちろん,カルテルや談合は原則違法だという立場もあると思いますが,独禁法の実際の条文を読み,制約条件としての公共の利益の位置付けを論理的に理解しようとすると,私自身は先に述べた読み方をすると条文の意味がよく理解できると思ったわけです。これは,法学的な読み方ではないのかもしれませんが,論理的には成立する読み方ではないかと思っているのです。

 質問者A:
 おそらく,カルテルの場合に,カルテルを一律違法にするという法制度ももちろんあり得るわけですが,基本的に,カルテルの中でも特に競争の実質的制限をもたらすようなカルテルを違法にするという形での法制度も設計の段階ではあり得るわけです。おそらく日本と同じように競争法違反行為に関して公共の利益要件を課していたのはイギリスなのですが,この立場を採っていきますと,せっかく競争のルールをつくっておいても,競争のルール違反が起きるたびに,それが国民経済の観点から結果としてその行為が例を招くんだという形での,いわば功利主義型の蒸し返しが常に出てきまして,法の運用に関しては甚だ不十分であり,かつ透明なルールによる運営が困難をもたらすための不公正さもあり得ることになります。したがって,競争ルールの設計段階では,個別コンテクストで一定の行為がもたらす厚生上の効果を問題にすることなく,一定のルールが策出された場合に,それを遵守されるならば公共の福祉が増大するならよしとする形での介入が正当化されるというのが立法段階ないし憲法上の要請としての公共の福祉の問題ではないかと考えまして,先ほどのような質問を申し上げた次第です。

 鈴村:
 もう一度,私自身の考え方をチェックさせていただきます。ただ,憲法の法理の構成方法と競争法の法理の構成方法とのパラレリズムを必ずしも追求せず,条文そのものを虚心坦懐に読んだとしても,公共の利益の概念それ自体をもう少し解析して,内容を空虚でないようにする必要はあると思います。この残された問題は,さらに今後も追求したいと思います。

 質問者B:
 CPRCの客員研究員です。競争ゲームの公平性について,帰結的な考え方については無駄がないということ,羨望がないことといった具体的な基準があるとのことですが,手続的な観点から見た公平性については,どのような具体的な基準をお考えなのでしょうか。

 鈴村:
 帰結主義的な公平性の考え方を基礎付けるパレート効率性とか羨望が無いといった基準は,スタンダードな基準であるという意味でここで触れましたが,これらの基準にも問題が無いわけではありません。

 第1に,羨望が無いという基準それ自体が本当に適切な基準であるかどうかは論争の種になっていて,それに代わる発想を生かす提案は非常に多くなされています。その意味では,必ずしもこの概念に普遍的な合意が成り立っているというわけではありません。

 第2に,羨望が無いという基準が本当に首尾一貫した基準であるかどうかを尋ねれば,これは全く別の問題に導きます。ある意味で,こちらはもっと深刻な問題でして,パレート効率性と羨望が無いという基準を両方満たす資源配分メカニズムは,常に存在するわけではないのです。人々が能力と資源を使って生産活動を行い,生産された財を貢献に応じて分配する――我々が通常想定するような――経済においては,羨望が無いという基準と,パレート効率性の基準を同時に満たす配分が存在しないケースがあるのです。この事実は,帰結主義の内部においてすら,問題が無いわけではないことを教えています。

 一方,手続き主義についてどのような基準があるかに関しては,もっと議論があると思います。どのような基準を課すべきかについては,もちろん様々な提案があります。まず,『資本主義と自由』という古典的な本を書いたミルトン・フリードマンが「競争市場はある種の手続き的な公平性を持っている」と言っています。例えば,競争市場であるからこそ,パン屋は私が誰であろうとも,私が売る小麦の品質がよければ購入します。もし,私の小麦が非常に出来が良いにもかかわらず,日本人だから買わないということであれば,私は次のパン屋に行って売ります。そうすると,私の小麦を購入したパン屋と競争しなければならない最初のパン屋は,生産性とは関係がない理由で私を差別したが故に,私の顧客となったパン屋との競争において自分の競争条件を悪くして,不利益を被ることになります。この事実は,競争市場には生産性とは関係のないもろもろの要素のために人が差別されることを妨げるという機能が,自ら備わっていることを教えています。競争市場のこの機能は,手続き的な公平性の一つの要件であることは確かです。

 もう一つは,法哲学者ロナルド・ドゥオーキン,経済学者マーク・フローベイなどが分析している「責任と補償」というパラダイムです。これは,我々が自分に責任を帰されるべきではない理由で被る社会的な不遇に対しては,社会に対して補償を請求する権利があるが,自分の責任で引き寄せた不遇に対しては,社会的な補償を請求する権利は無いという考え方です。

 このように,手続き的にも帰結的にも,公平性についての考え方には様々な候補があって,非常に興味深い問題がオープン・クエスチョンとして残されています。一例として,競争市場のメカニズムを取り上げると,これらの要請のうちでどのような組み合わせを考えると,競争的市場メカニズムをそういう属性の束によってユニークに特徴付けられるかという問題です。非常に興味深いが,非常に難しい問題でもあります。この問題をテーブルに載せたところで,私のお話を閉じさせていただきます。

(終了)

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